PICTURE DIARY 0405FR2012


下館の「荒為」で昼食。この建物は江戸時代から明治、大正、昭和と増築された由緒の有るものだ。下館の荒物で財を築いた豪商の屋敷が今は料理屋になっていて、折折にお邪魔する。季節の料理が飾らなく楚楚としていて好きだ。近くに「時の蔵」と言う倉を改装した小さなギャラリーが有り、この建物は時計屋さんの倉だったそうだ。壊されかけた倉を地元の有志が独力で「時の蔵」として再生したと中心人物の一木氏が説明してくれる。今、「時の蔵」では下館が生んだプロ野球の大選手「田宮謙次郎展」が開催されている。ところが、入って見ると、一階と二階の展示室の一階のほとんど全ては昭和34年、第41回大会にたった一回だけ甲子園出場を果たした下館一高野球部の展示になっている。「田宮さんは下館一高で甲子園に出たのですか?」と尋ねる僕に一木氏は「田宮さんは甲子園の出場経験は無く、当時は阪神の四番打者で大活躍なさっていました。郷里の母校が阪神球団のホームでもある甲子園への出場と言うこともあって、大いに喜んで、差し入れをしたりあれこれ面倒を見て、応援をしたらしいのですよ。」と説明してくださる。さらに一木氏が話してくださるには、チームは甲子園の初戦で15対1と大敗を喫し、おまけに甲子園でのエラー数の新記録を作ってしまったそうだ。その結果面目を無くした田宮選手との関係もギクシャクしたらしい。下館一高野球部の展示を見て行くと、大会最年少の26才、そしてデビューしたばかりで大人気だった巨人の長嶋選手にそっくりと言うことで、メディアからも特に注目された菊地監督を選手が囲む全員満面笑顔の、本当に良い顔をした素晴らしい写真がある。まるで優勝した時のようだ。「これは皆本当に良い顔をした素晴らしい写真ですね」と言うと、一木氏が実はこの写真は大敗をした翌日、全員が観光で淡路島に一泊した時のものです」と言う。その下には黄色く変色した新聞のスクラップ。駅前の広場で出迎えた大勢の下館市民の前に深く頭を垂れ、項垂れた黒ズボンに白シャツ姿の選手達の写真がある。淡路の写真の笑顔は屈託ない、心からのびやかな少年の笑顔だったので二点の写真のコントラストに心が痛む。淡路の写真の野球少年達は大敗した事やエラーの新記録の不名誉を解消した顔に見える。菊地監督との信頼感と充実の日々を締めくくる良い一日だったのだろうと想像する。この時の下館一高野球部の甲子園への快進撃にはエース中島選手を巡るドラマが有ると言う。41回大会の前年に父を亡くし、野球続行が阻まれた折、遠方で仕事をしていた兄が帰郷し父親代わりになって支えたが、その兄が自殺すると言う再びの不幸に見舞われたところを「おまえがいなければ野球をやる意味がない!」とチームメイトや監督の尽力によって支えられ、一丸となってプレーした結果の甲子園だったのだ。多くの場合、甲子園に出場するとその記念碑が母校の構内に建てられるそうだ。学校はもちろん行政やOB、父兄が協力し寄付を集めて作るらしいが、この下館一高野球部に限っては、記念碑などは無く、出場から50年後の平成20年、当時の選手達が自分達で建てたそうだ。その写真も展示されている。一木氏は田宮謙次郎選手のご遺族からの依頼を受けてユニフォームや残された選手時代の遺品をお預かりすることになるにあたって、下館一高野球部と野球人田宮謙次郎の人間臭いドラマのある関わりを少しでも市民に知ってもらいたかったと言う。郷土の誇りとして。田宮謙次郎氏の父君は「荒為」で修行し独立、紙業で大成功なさった方だそうだ。

One Comment

  1. かとびい より:

    下館一高,地元の名門校ですね。
    水戸から下館,ローカル線で約1時間。
    今では何でもない距離ですが,
    小さい頃はとてもとても遠い街でした。

Leave a Reply