PICTURE DIARY 0811TH2012
渋谷シネマライズで「DIANA VREELAND」の試写を観る。1940年代から1980年代に至る50年間余に渡り、ファッションの世界に君臨した伝説のファッショニスタのドキュメントムービー。「ハーパース・バザー」誌のカリスマエディターとしてキャリアをスタートしたダイアナは、25年間における在職中に大活躍し、J.F.ケネディ夫人ジャクリーヌのファッションアドバイザーをするなど、その明るく大胆な信念に裏付けされた個性を発揮して、ライバル誌「ヴォーグ」の編集長に抜擢される。オードリー・ヘップバーン主演の映画、「ファニー・フェイス」の雑誌編集長はダイアナがモデルである。1963年60歳から「ヴォーグ」誌を解雇される1971年68歳まで同誌を、さらにファッション界を牽引しファッションにストーリーを持たせた企画や、無名のツィギーに代表されるモデルやアヴェドンなど、多くの才能あるモデルや写真家を見出だし起用し引き立て、成功させた。1972年68歳でメトロポリタン美術館の衣装研究所顧問となり、まだ現役で活躍中の「イヴ・サンローラン」展を開催し、単なるメゾンの宣伝ではないかと物議を醸し出すなど、今ではポピュラーになった展覧会の元となる数々の革新的なファッションに関する展覧会でファッションは芸術であることを世界に認めさせた。女性が働くということは勿論のこと、ファッション・エディターの社会的な地位の向上はダイアナによって示された。若いダイアナがココ・シャネルと知り合って、シャネルの服を着て踊っているところをハーパース・バザーの編集長に見出だされたことを思うと、シャネルもまた女性の社会進出と言う意味でも革新的な役割を果たした女性であっただけに、無言の導きがダイアナをよりポピュラーな後継に位置付けたのかも知れない。ファッションは確かに流れ行くもので、ダイアナの過ごした時代辿るとファッションを中心にした社会の動向には文字通り敏感に反応をして誌面に、あるいは展覧に反映し、表現として生かした。人々の眼に触れ、見えるように具体的かつファンタジックなイメージを投げ掛ける直感的な仕事は群を抜いている。小さなとき、若いときから意識的、そして自然に磨き上げられたセンスは、結婚を機に更に輝き、ダイアナの自由は高く深くなった。多くの知己を得て、セレブりティたちとの機知に富んだ仕事を介し、いくつもの映画のモデルにもなった女性。シネマライズが久々に買い付けた映画だけのことはある。監督したリサ・インモルディーノ・ヴリーランドは、ダイアナの孫と結婚してヴリーランド家の一員となった女性だが、タイトルとして掲げた言葉は「DIANA VREELAND:THE EYE HAS TO TRAVEL」まさに、そんな女性だ。